人生の時間の使い方
今日の午後から、セネカという古代ローマの哲学者が遺した『人生の短さについて 他2編』という本を読んでいる。
描写や注釈の中に有名な人物が出てきて、とても面白い。クレオパトラとか、カエサルとか。
「おおっ、かの有名な!!」「なるほどね~。確かにそのぐらいの時代で重なってるもんね~」等々、興味深く読めている。
長いカタカナの名前は、誰が誰なのか判別が難しいので、注釈を付けてくださる方の存在は本当にありがたい。
(アントニウスとか注釈なかったら誰か分からん。しかも息子と2人セットになられたら、余計に分からん)
この本では最初の方に人生の時間の使い方についてのセネカ自身の考えが出てくるのだけど、個人的には「時間の浪費もそんなに悪くないんじゃないかなぁ」と思っている。
休みの日に1日中家から出ずに、くたくたのルームウェアのままで本を読んで過ごすとか、浪費かもしれないけど贅沢極まりない行為ではありませんか、セネカさん。
心を生かす楽しみ
楽しみの時間も無ければ、人間は死んでしまう。
生き永らえてるかもしれないけど、心が干からびてしまう時間の使い方は、どんなに有意義に見えても無意味だ。
後々役に立つことかもしれないし、確かに助けになることもあるだろう。
しかしその瞬間、本人の心を損なったという事実は、決して消せるものではないのだ。
じゃんじゃん自堕落になって時間を使い潰す行為と、日々を乗り越えた後の楽しみとでは、大きく違う。
「この為に今日1日生き延びたぜーーーーー!!!!」というのは絶対ある。
部屋や自宅の外に出なくても、YouTubeを見まくったり、ネットで素敵な漫画を漁りまくったりする。
どこかの誰かさん(この場合は演者さんや作者さん)の「楽しんでもらえますように」という願いが込められた作品を摂取することは、愛情を摂取することと同じだと、私は思っている。
そもそも考え方の違いはある。
そもそもセネカ氏はストア派の哲学者。
ストア派の考え方は人間の理性に従って禁欲的に生きる、どちらかと言うと意識高い系。
「出来そうなところだけ取り入れますよ」という意識が根深い私としては、「ちょっとついていけないっす…」というところだってある。
ただ、彼は激動の古代ローマの政界で生きていた人物なので、そんなハードボイルドなバックボーンが無い一般人とのギャップは致し方ないとも思う。
少なくとも、暴君ネロとか暗殺とか追放とかは、身近に皆無だ。
何だかんだ言うものの、実はまだ読んでいる途中
本を読んでいると「自分だったら」がどうしても出てきてしまって、今回の本はそれが特に滾ってしまった。
アレコレ書き散らかしたものの、今まだ読みかけの段階なので、是非ガッツリ読み込みたい。